英気に溢れる -Be filled with brilliance-

鹿児島で学習支援業を行なっているBRILLIANTが、子どもと教育、心と身体に関するエッセイ、日々の雑想をお届けします。

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かつての自分へ届くように

私がブリリアンスで授業をする時、心の隅に置いていることが幾つかある。


そのうちのひとつに、中学生・高校生だった時の自分が受けたいと思えるような授業をしているか、ということがある。


中学生・高校生の時の私は、塾というものにあまり良い印象を持っていなかった。

「強制的に勉強をやらされる場所」だと思っていた。

私は、塾に行かずに、自分で選んだ教材を、計画を立てて自分の力で勉強していくことにプライドを持っていた。

勉強のプランを自分で組むことが楽しかったし、誰かに何かをやれと強制されるのがとても嫌だった。


一方で、塾へ通う友人達に羨ましさを感じることもあった。

同じ塾に通う友人達が、塾の話題で盛り上がっているのを見る時である。

塾の話題になると、急に輪の中へ入っていけなくなるのが、寂しかった。


「学校が終わって、夜になってからも、皆どこかの場所へ集って、一緒に勉強をしてるんだ…」


それが例え強制的な勉強の空間だったとしても、塾に通っている友人達というのは、僕の知らない何か楽しい「秘密の時間」を共有しているかのように感じられたのである。


もうひとつ羨ましく感じたのは、どうやら塾に通っている友人達は、塾の先生からたくさんの「裏技」を教えてもらっているらしいということだった。


歴史の年号を覚えるためのゴロ、時間のかかる数学の問題を簡単に解ける方法など、学校では教えてくれない「裏技」を口伝えでたくさん教えてもらっているらしい。


私の場合は、自分で選んだ教材の「解説」を読んで、そのような方法を発見して身につけるか、自分で編み出すしかなかった。

それができなければ、スマートではない解法であっても、時間をかけてガリガリ解くしかない。


だから、誰かに「こんな魔法のような解き方があるよ」と、さっと教えてもらえる塾に通う友人達に、嫉妬と反感の入り混じった感情を抱いたものである。


そして、そういった感情を味わう度に、私は「アンチ塾」という思いを強め、「自分で勉強していること」の誇りを高めていった。


そのような、塾に対する反感とコンプレックスを持っていた中学校・高校時代の私であっても、受けたいと思えるような授業をやりたいというのが、今の私の目標のひとつなのである。


では、当時の私が受けたいと思うような授業は何だろう。


問題を簡単に解ける裏技を教えてもらえる授業だろうか。

成績が上がる勉強のプランを与えてもらえる授業だろうか。

志望校に合格「させて」もらえる授業だろうか。


…おそらく、どれも受けたいとは思わないだろう。


当時の私が受けたいと思うのは、「受ける前と後では、世界の見え方が違う」授業だと思う。


勉強のプランを考えるのも、成績を上げられるかどうかも、志望校に合格できるかどうかも、すべて自分で責任を負う、だから「強制されずに自分でやりたい」というのが当時の私だった。

しかし、独学ではどうしても見えてこない世界というのがある。

師がいなければ、到達できない高みというのがある。


実は、私の数学や理科に対する視野が開けてきたのは、高校を卒業した後だった。

高校の時の私は、センター試験のような「基礎」を問う問題なら良い結果が得られたのだが、東大・京大の二次試験のような「深い」問題をどういう風に解きほぐしていけばよいのかは、まったく分かっていなかった。


視野が開けるきっかけを与えてくれたのは、予備校の先生の授業だった。

数学や物理に対する考え方が180度変わった。

「世界の見方」ががらっと変わったのである。


それから私は、自分で数学や物理の問題を解いている時、「深い知の海を泳いでいる」ような感覚を覚えることが増えた。


中学生・高校生の時から、このような「深い知の海を泳いでいる」ような勉強ができていたら、数学や物理は、もっと面白いものとして自分に迫ってきただろう。

そんな風に開眼できる「きっかけ」を与えてくれる師ともっと早くに出会えていたら、と思うことがある。


強制されるのではなく、自分で勉強していくという前提が尊重された上で、受ける前と後とでは、世界の見え方が大きく変わるような授業だったら、当時の私も受けたいと思うのではないか。


今日の授業は、当時の私が目を輝かせるようなものだったろうかということを基準に授業を振り返ってみるのだが、当時の私が生徒なら、まだまだ「しかめ面」をしているような日が多い気がしてならない。

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ジャンル : 心と身体
テーマ : 自分らしく

[ 2011/10/27 04:36 ] スタディサロン日記 | TB(0) | CM(4)
こんにちは
「深い知の海を泳いでいる」ような感覚を手に入れるきっかけを与えてくれる師。以前読んだ、内田樹さんの「先生はえらい」という本にあった一節を思い出しました。それは自動車教習所の先生と、プロのF1ドライバーに教わった場合の比較です。以下引用

教習所の先生は「君は他の人と同程度に達した」ということをもって評価します。プロのドライバーは「君は他の人とどう違うか」ということをもってしか評価しません。その評価を実施するために、一方の先生は「これでおしまい」という到達点を具体的に指示し、一方の先生は「おしまいということはない」として到達点を消去してみせます。ふたりの先生の違うところはここです。ここだけです。ほとんど同じ技術を教えていながら、「これができれば大丈夫」ということを教える先生と、「学ぶことに終わりはない」ということを教える先生の間には巨大な「クレヴァス」があります。学ぶというのは創造的な仕事です。それが創造的であるのは、同じ先生から同じことを学ぶ生徒は二人といないからです。私たちが学ぶのは、万人向けの有用な知識や技術を習得するためではありません。自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在であるという事実を確認するために私たちは学ぶのです。

この本、店の近くにある某進学塾の先生が貸してくれたんですよ。でも、昨年3月、病気でなくなってしまいました。ためになる本をたくさん貸していただいて、ずいぶんお世話になった方でした。
[ 2011/10/27 14:33 ] [ 編集 ]
わたしにとっての師は、
お兄ちゃんだったよ。

ほんとうに、いつも、ありがとう。

今の私があるのは、いつもいつもお兄ちゃんが努力でつけてくれた道の上を指標としてこられたからです。

今現在も、これからも、それは変わらないことと思います。

どうか、みんなの為にも、自分をかわいがってやってください。

温泉に行ったり、旅にふらりと出てみたり、自由なひとときをどうか作ってください。

それでは、おかえりを待っています。
[ 2011/10/27 17:20 ] [ 編集 ]
スプーンさん

内田樹さんの著書はとても面白いので、僕も愛読しています。内田さんのブログもチェックしているのですが、今回ご紹介頂いたお話は初めて知りました。ありがとうございます。

「学ぶというのは創造的な仕事」
「同じ先生から同じことを学ぶ生徒は二人といない」
「自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在であるという事実を確認するために私たちは学ぶのです」

至言だと思います。内田さんのこの言葉をたくさんの人が読んだと思いますが、同じことを学んだ人は二人といないのでしょうね。そう考えるとまた深いですね。
だから同じ先生から学んだことを生徒同士が分かち合うということも、大切な学びなんだろうと思います。
[ 2011/10/28 13:16 ] [ 編集 ]
ひろこさん

ありがとう。
[ 2011/10/28 13:17 ] [ 編集 ]
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