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鹿児島で学習支援業を行なっているBRILLIANTが、子どもと教育、心と身体に関するエッセイ、日々の雑想をお届けします。

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人生を行くときの手すり

最近読んだ「ニーチェの言葉」の中に次のような言葉があり、

深くうなずいてしまったので、ここに記しておきます。


*** *** *** *** ***

「人生を行くときの手すり」


注意を怠ると転落事故が起きかねない渓流沿いの細道や橋などには、

必ず手すりがついている。

実際に事故が起きるときには手すりもろとも落ちてしまうだろうから

その手すりは万全さを保証しているわけではない。

しかし、手すりがあれば、それなりの安心を得ることができる。


このような手すりとして、父親、教師、友達は、わたしたちに

安心と保護されているという安定感を与えてくれる。

彼らに完全によりかかっても助けにならないかもしれないが、

心の大きな支えにはなってくれる。


特に若い人には、こういう手すりのような役割を

無意識に果たしてくれる人がどうしても必要だ。

それは、若い人が弱いからではなく、よく生きていくためにだ。

*** *** *** *** ***


手すりが、勝手に動いて何かをしたり、口を出したりすれば、

手すりとしての役目を果たすことはできません。

ただそこにしっかりと「在って」「揺るがない」でいることで

手すりはその役目を十分に果たすことができるのです。

傾斜の厳しい道、困難な道をのぼっていくのはその人自身ですが、

手すりがそこにしっかりと「在る」ことによって、

険しい道も、それを登りきることの可能性が見える道へと変わります。


親や師になることを選んだ人間に、このニーチェの「手すり」の比喩は

大切な視点を与えてくれると思うのです。
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ジャンル : 学校・教育
テーマ : 子育て・教育

[ 2010/07/31 23:58 ] 子どもと教育 | TB(0) | CM(2)
No title
「人生の手すり」…深い言葉ですね。

揺るがない存在として、そこに在る。
親や教師になった時、
育てることや教えることに対して、時に力が入りすぎて、
自分の思うままに「操ろう」としてしまうことがあります。

そして、思い通りにならないとすぐに叱ろうとする。

そういうとき、ぐっとこらえて、一歩立ち止まって、
「まもる(見守る)」ことの大切さを感じます。

僕たちも、そうやって育てられてきたのだと思います。
身の回りには実は親や先生以外にもたくさんの大人がいて、
そのなかには、
自分をわが子のように見守ってくれた人もいたのです。

「人生の手すり」の話を読んでみて、
僕が最初に思い浮かべたのは
小田和正の「生まれ来るこどもたちのために」という歌でした。

―――
多くの過ちを僕もしたように
愛するこの国も戻れない もう戻れない
あのひとがそのたびに許してきたように
僕はこの国の明日をまた想う
―――

この曲を聞くと、僕の記憶の中の「あのひと」が
僕の「多くの過ち」を「許してきたように」、
僕もまた、目の前にいる子どもたちをいつでも許しながら、
見守っていきたいという希望が湧いてきます。

「許す」とは、
究極的には、罪を贖ったことに対して与えられる
ある種の「証明」のようなものでしょうけれども、
もっとゆるやかな目で見てみれば、
その人が存在することを、良きも悪しきも含めて
根本から「認める」ということなのではないかなと思います。

自分を認めてくれる人がいるという安心感。
普段は気付かないくらいささやかでいいので、
そういうものを子どもに感じてもらえるように、
今、自分が自分として、できること、すべきことはなにか、
考えてみなければならないと思いました。
[ 2010/08/04 23:53 ] [ 編集 ]
みねくん

時に力が入りすぎて、思うままに操ろうとしてしまうこと、
僕もあります。

「教えたい」「導きたい」「諭したい」
気持ちをぐっとおさえることがよくあります。

その子の芽生えを待ち、見守ることには根気も必要ですよね・・・。

僕が思うのは、自分の思い通りに相手を操れたとして、
子どもが自分の思い通りに育っていったとして、
それで本当に満足か、幸せか、面白いか、ということです。
(自分にとっても、相手(その子)にとっても)

僕は、子ども達の、僕自身が思ってもみなかったような
素晴らしい成長に立ち会いたいなあ・・・と常々思うのです。

また最近気づいたことなのですが、
僕は○○を実現したいという具体的な夢や目標をもつことに
あまり面白みを感じない人間なんだなあ・・・ということ。

もちろん、具体的な夢や目標はいっぱいあるのですが、
逆になんでいっぱいあるんだろう、
何でひとつに絞りきれないんだろうと
色々思考をめぐらせていたら、
このような結論に至ったのです。

とても矛盾した言い方になるのですが、
「思ってもみなかったような夢を実現したい」
という意志が根本にあるような気がして・・・。

僕が宇宙へ向かって大きな石(意志)の第1投を投げる。
その石が、水面を跳ねて遠方へ飛んでいく。
そして、思ってもみなかった様々な波紋が描かれながら、
思ってもみなかった素晴らしい世界が生み出されていく。

何になるのか、何が生まれるのか分かりませんが、
想像を超える素晴らしい世界(時に醜・悪ももしかしたら
含むかもしれないけど)が生まれることを祈って、
世界の波紋を見守りながら、繊細なアンテナを張りながら、
自分の全知性、全存在をかけて石を投じつづける。

日々の授業もそうでありたいと思っています。

みねくんの文を読むと、いつも連想が湧くので
脱線してごめんなさい。


「僕達もそうやって、見守られて生きてきた」
という視点にはっとしました。

僕を見守って育ててくれた方々も
時に「ぐっとこらえて」、許してくれていたんですよね・・・。

みねくんの書いてくれた「許す」という部分を読んでいて
そういえば、何で英語で「許す」は「forgive」なんだろう?

なんで、「for」~ために、と「give」~与えるが
組み合わさって、「許す」の意味になったんだろうということ
が気になってしまい、語源を調べてみました。

そのことについては、日記であらためて書こうと思います。

気づきを与えてくれて、ほんとうにありがとう!
[ 2010/08/05 16:23 ] [ 編集 ]
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