英気に溢れる -Be filled with brilliance-

鹿児島で学習支援業を行なっているBRILLIANTが、子どもと教育、心と身体に関するエッセイ、日々の雑想をお届けします。

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語りかけてくるもの

世の中には、一流の品物、二流の品物という言葉があります。

本物、偽物という言葉もあります。

しかし私は、世の中に一流の品物も、二流の品物も、

本物も偽物も存在しないと思っています。


この世に存在するのは、自分に「語りかけてくるもの」と

「語りかけてこないもの」しかないと私は思うのです。


皆が口々に、これは天下一品だ、素晴らしい品物だと叫んだとしても

自分の心に何も語りかけてこなければ、

それは自分にとって、何の意味ももち得ないのです。


逆に、だれもが、そんなもの三流でしょ?B級でしょ?

○○のパクリでしょ?と蔑んだとしても

それが、自分の心に深く語りかけてくるものだとしたら、

その人にとっては最高の品物なのです。


例えば、参考書を購入する時には、

その本を手に取り、眺める時に

自分に何かを語りかけてくるか、ということを

一番の判断基準にしたらよいと思います。

もちろん周囲の評判は参考にしても良いのです。

ですが、一番大事なことは、

自分にとってどうか、ということなのです。

周りの評判が良いからといって、いまいちピンとこないものを

無理して購入する必要はないのです。


例えば、○○大学を目指すなら、こんな易しすぎる内容の

本を買っては笑われてしまうかも、

と周りの目を気にしなくても良いのです。

その本が、自分に強く語りかけてくるなら、

その本は今の自分にとって必要な本なのです。


逆に、小学生であろうが中学生であろうが

その本が強く語りかけてくるなら

極めて難解な哲学の本でも、生物学の本でも

背伸びして買って良いのです。

すべてを理解できなくても、

知的好奇心の枝葉を大きく伸ばしてくれるものです。


何かを選ぶ時には、

そのものが語りかけてくる、かすかな信号をキャッチすることです。

人間は、生きているものだけでなく、死者や無生物とコミュニケーション

する能力を持って産まれてきています。

死者と対話をする儀式が、葬礼であり、お墓参りです。

無生物と対話をする能力を特化させているのが

職人や鑑定士といった職業の方々です。


もの言わぬものが発するメッセージを感じ取るには、

積み上げてきた経験と信念、磨いてきた感覚を頼りに

するしかありません。


他者がどう感じるか、どう評価するかを判断基準の第一に

していては、このようなメッセージを感じ取る能力は

退化してしまいます。


そうなると、目の前には、誰かが言う、一流と二流、本物と偽物で

溢れ返ってしまいます。迷いも深まるものです。


逆に、自分に「語りかけてくるもの」を大切に選び取っていけば

目の前には、その人にとっての「本物」だけが

立ち現れてくると思うのです。
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ジャンル : 心と身体
テーマ : 小さな幸せ

[ 2010/07/07 03:48 ] 日々のエッセイ | TB(0) | CM(6)
語りかけてくれるという意識を持つことが第1歩ですよね。


意識を持つようになれば、アンテナができてきますし。
[ 2010/07/08 04:43 ] [ 編集 ]
No title
こばやん

そうですね!
「語りかけてくれる」という意識をもつ、
その態勢をつくることがまず最初かもしれませんね。

そうであるには、人生において積み重ねて来た
「信じる」という体験が支えになるような気がします。

逆に言えば「語りかけてくれる」という意識を持つことが
「信じる」の第一歩であるようにも思います。

また「語りかけてくれる」という意識の原初には、
自ら「語りかけてみる」という試みがセットになっている
ような気もします。

こうやって連想を進めると、やはり
母親と生まれたての子の姿が、脳裏に浮かんできます。
生後間もない子どもと親との間には
言語を超えたコミュニケーションしかなかったでしょうから。

両者は「語りかけてくれる」と「語りかけてみる」の「信頼感」
を築きながら、徐々に言語の階段を昇っていくのでしょう。

師と生徒も、似たようなところがあるかもしれないなあと
思います。
[ 2010/07/09 03:05 ] [ 編集 ]
どうかん
こんばんわ。今日の日記を見て同感の体験をしました。
大人になっても参考書ってほしくなることがあるんですけど
今度またTOEICにチャレンジしようと思ってまして、テキストを
書店に見に行った時のことです…あたしは、書き込み式でちょっと
イラストも多く中学生のテキストちっくな本にひとめぼれしました。
ほぼ、これに決定と思ったとき友達に、そんな本で点数とれるの?って言われて今日の日記で書かれた内容に拍手でした。
たとえそれがTOEIC700点めざすハイレベルなテキストでなくても
自分が一番やれる。実力がつくと思った参考書ならいいと思います。
参考書は、お弁当を選ぶときの気持ちのままに購入するほうがいいですよね。無理して高価なお弁当や嫌いなものがたくさん入ったお弁当を買って食べても体力になっていかないかもしれませんもんね。

これからもそのテキストで高得点狙えるように勉学に励みます。
余談ですが…今「耳をすませば」を放送しています。
これ大好きなジブリの一作品です。


長くなってしまい、すみません。
これからも日記たのしみにしています。
[ 2010/07/09 22:53 ] [ 編集 ]
チャンネル。
こんにちは。

「自分にとってどうか」という視点、大切だと感じます。

卑近な例をひとつ。
友人と映画に観に行くことがしばしばありますが
映画が終わったあと、非常に気まずい空気が流れます。

「映画を観た」という体験について友達と交流しなければならない。
でも、その「交流」がこれまた厄介で、
「相手がどう感じたのか」ということを探らなければならない。
相手が「面白かった」と言えば、その感動を壊さないようにしようと努めるでしょうし、
相手が「面白くなかった」と言えば、自分が面白いと感じたとしても、
「あそこのとこが、ちょっとダメだったね」と部分的にでも
「面白くなかった」という流れに同調しなければならない。

みんながみんな、そうだというわけではないのでしょうけど、
僕はこの映画の後のひとときに、妙に違和感を感じるのです。

師匠のいうとおり、
傍目にはどんなに酷評されるような映画であったとしても、
自分の琴線に触れる、抜き差しならないようなそんな映画であったとしたら、
それは何も恥じるべきことではないはずです。
逆に、他の人がどんなに「いい」といったものでも、
その「いい」を無批評なまま受け入れる「鵜呑み」をする必要はないはずです。

ただ、そこには、「相手の感動」への配慮があって、
相手が「いい」というものに対して無感動であることへの負い目というか、
相手の「いい」を壊したくないという思いがあることも事実です。
それは、自分にとっての「いい」を壊されたくないのと同じなのかもしれません。
そんな優しい配慮が、逆説的ですが、「感動の多数派」にどんどん
「私の感動」が回収されて行ってしまうという事態を生んでしまう。
むずかしいものです。

自分にとっての「抜き差しならないテクスト」、
自分にとってのバイブル・ズ(いくつかの聖典)を信じぬく力とともに、
他者にも、自分と同じように「抜き差しならない」バイブル・ズがあるということを理解しなければなりませんね。
それが「認め合う」ことなのかもしれないと思います。


「もの言わぬものが発するメッセージを感じ取る」。
声なき声を聞く、というのは僕も目指したい領域です。
チャネリングという言葉がありますが、(その内容はさておくとして)
僕は「チャンネル」という言葉が好きです。
テレビ世代だからでしょうか。笑。
パソコン世代には通じない感覚かもしれません。

文字や音声がなくたって、感じ取れるものがあるのではないか。
文字や音声が発する「ことば」を過信しすぎないほうがいいのではないか。
つながれる「かたち」、「チャンネル」はほかにもたくさんある、と思うのです。

声なき声、言葉なき言葉に「寄り添う」ことができるか。
僕は(教育活動に活かせるかどうかはさておくとしても、個人的には)
そこを大切にしていきたいと思っています。

長い&うまくまとまっていませんね……すみません…(> <;)汗。
[ 2010/07/10 18:40 ] [ 編集 ]
Re:どうかん
ねこさん

コメントありがとうございます!
TOEICにまたチャレンジするんですか!
参考書選びで共感をして頂けて
とても嬉しいです!

またお弁当選びの例えもすごくよく分かります!
「これ食べたい!」って体の欲求に素直になることと
「これ学びたい!」って頭の欲求に素直になることは
似ているかもしれませんね。

家のわんちゃんは、おなかの調子が悪い時
家の中にある観葉植物をもしゃもしゃします。
そうやってお腹の調子を整えているんでしょう。
本能的に自分に必要なものを分かる能力が
生物には備わっているんだと思います。

人間もそういった感覚を持っていると思うし
それを磨いていけば、頭で考えるよりも速く
必要なものがパッと手に入るんじゃないかと思います。

もちろん、○○だから○○した方がいいよな・・・
って理屈も時に大事だと思うのですが。

耳をすませばは昨日は見れませんでした
(今まで十回以上は見てる気がします♪)
僕も大好きです!

TOIEC応援していますね♪
[ 2010/07/11 02:49 ] [ 編集 ]
Re:チャンネル。
みねくん

コメントありがとう!

映画の例は、身に覚えがありまくりです。
大筋の評価が相手と一致している時はいいけど
大きく評価がずれる時は、気をつかってしまうよね。


「相手の感動」への配慮。
これは大切な歩み寄りだと僕も思います。
規模をでかくしていくと、宗教間の対立とかも
そこに根がある気がします。

自分が否定的な評価に立って、
相手が肯定的な評価に立っているときは、
相手への歩み寄りは比較的しやすいと思うのですが

自分が肯定的な評価に立っていて
相手が否定的な評価に立っているときに
その相手に歩み寄れるかというと、
これはかなりレベル高いように感じます。

「相手の批判」への配慮

これをなせるかどうかにこそ
自分の器が試されてしまうかも・・・

相手が強烈に感動しているときも
強烈に批判しているときも
相手の根源が揺り動かされてのことだろうと思うので
同じくらいの繊細な「タッチ」が要求されるんじゃないかな
と思うのです。

初デートには映画に行け、というのは
上級者向けのアドバイスだと思います(笑)
実はかなりリスキーですよね。


チャンネル。
というと、テレビのチャンネルがまだカチカチ回る
ダイヤル式だったときの情景が頭に浮かびます。

あの時はまだ、
チャンネル選びと体感(触感、音感)がセットになっていて
チェンジする、ということは、ひとつの「カチッ」という
跳躍だったんですよね。

その意味では、実は当時のチャンネルはかなりデジタルだった。

むしろ今のデジタルな電子機器は「つなぎめがなめらかな」
「跳躍の実感のわかない」かなりアナログなインターフェイスをしている。

逆説的だなあ・・・と思います。

ごめん、みねくんの言う所からずれてしまったんですが、
そういう連想が沸いてきて。

さらに脈絡ないですが、
あのテレビの何も映ってない
「砂嵐」の画面を見つづけたりしたことはないですか?

あれすらひとつの番組であるかもしれない
と僕は思うのですが、
それは妄想の域でしょうか。

「声なきものの声をきく」ということと「妄想」の境界線は
実にナイーブにできていて、
しかしながらこのナイーブさを保持して生きることが
ものすごくタフなんだ、と思うんです。

「寄り添う」ことは、ひとつの境地ですね。
自然にできてしまう日もあれば、
とても難しく考えてしまう日もある。

僕こそ、まとまりがなくてごめんなさい。
[ 2010/07/11 03:36 ] [ 編集 ]
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