英気に溢れる -Be filled with brilliance-

鹿児島で学習支援業を行なっているBRILLIANTが、子どもと教育、心と身体に関するエッセイ、日々の雑想をお届けします。

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学校の理科の授業に対する提言

学校の化学や物理の授業が分からないという生徒さんが多いです。

学校の授業では、独自の穴埋めプリントを使って説明される先生が多いようで、先生のお話を聞きながら、生徒がその穴を埋めていくことに、授業時間の多くが費やされる場合が多いようです。

断言します。

このやり方では、理科の力はつきません。

理科が分かるようにもなりません。

好きにもなりません。

学校の先生方は、限られた授業時間の中で、指導要領に基づいた全ての内容をレクチャーしなければならないので、このようなやり方を採用されるのでしょう。

そこには同情の余地がありますが、このやり方のまずい所を何点か挙げます。


①何が一番大切なことなのか、何が一番基本となることなのか、生徒が理解できない。

②穴埋め主体だと、生徒が理科は用語や公式を暗記する教科だと勘違いしてしまう。

③穴埋めは単調な作業であり、面白くない。眠くなる。理科嫌いになる。


まず①について。

先生の成すべき仕事とは何でしょうか?

教科書での理科の独学というのは非常に難しいものです。

というのも、教科書には、その単元の根や幹となる重要な部分から、後回しにして良い枝葉の部分までが、濃淡なく網羅的に書かれています。

学習者は、何が根幹部分で、何が枝葉の部分なのかを知るのが非常に難しいのです。

そこで先生の出番です。

先生の大きな役割のひとつは、「何が一番大事なことなのか?何が一番の基本となるのか?」を生徒に伝えることです。

もちろん穴埋め作業の途中で、学校の先生も、ここが一番大事なところだよ、と強調されているだろうとは思いますが、「流れ作業の中での強調」は頭に残らないのです。

私の持論ですが、一回の授業で、生徒の頭に残せることは、究極的には一個だけです。

本当に重要なことを、生徒の頭に一個だけ残す。

その一個を核として、他の枝葉の部分を、生徒が自分でネットワークしていくのが、望ましい授業の形だと思っています。

初学者に、何が一番大事なことなのか?を伝えられるのは、先生をおいて他にいません。


続けて②と③について論じます。

理科は用語や公式を暗記する教科だと勘違いしている生徒が非常に多いです。

また、単調な授業のせいで、理科を面白いと感じられない生徒も多いです。

(私にとっては、高校時代の日本史の授業が穴埋め主体で、まったく面白くありませんでした。)

私は、そういう生徒が多いことを、非常に悲しく思います。

理科の先生は、自分が理科をなぜ好きなのか?なぜ面白いと感じるのか?それを生徒に伝えていかなければならないと思います。

学校の先生も、決して「用語や公式を覚える教科」だから、理科が好きなわけではないでしょう。

理科が好きな理由は、絶対に他にあるはずです。

その先生が感じている理科の魅力を、生徒に伝えることに力を使わなければ、先生は教科書の朗読者になってしまう。

そんな授業はつまらないです。

教科書を超える授業をやってこそ、先生だってきっと楽しいし、生徒だって楽しいはずです。

楽しいが、好きに変わり、好きが得意に変わっていくのです。


私は理科が大好きです。

理科は決して「用語や公式を暗記する教科」ではありません。

たったひとつの単純な原理から、すべての現象を説明したい!という、壮大な野望によって発展してきたのが、理科という学問です。(特に物理)

根幹となる原理を掴んだならば、すべての問題をこの手で解決できるはず!という、強い意志を育んでいくのが、理科という教科を学校で教えるべき、ひとつの理由だと思っています。

そして、根幹となる原理をもとにして、知識の枝葉の部分を体系化し、「一本の大きな樹」を自分の頭の中に形作れた時、理科の問題は面白いほど簡単に解けるようになってきます。

そのためには、先生自身が、自分の頭の中を生徒に「開示」することが必要です。

先生はこうやって、この単元の知識を体系化しているんだよ、と。

生徒は、先生がどうやって知識を体系化しているのかをモデルにすることによって、学習を進めやすくなります。

だから、先生が板書をするというのは、ものすごく重要なことですし、本当はものすごく勇気が必要なことなんです。

だって、板書は「先生の頭の中の開示」なのですから。

ごちゃごちゃして分かりにくい板書であれば、自分の頭の中もごちゃごちゃしています、ということの証明になります。


知識の体系化、というのは、教科書や問題集の独学ではなかなか難しいところがあります。

知識の体系化のナビゲートは、授業でしかできないことなのです。

しかし、「プリントの穴埋め」という授業では、「知識をいかにして体系化していくか」という重要なレッスンの機会をみすみす捨てることになってしまうのです。

ここで変な例えを持ちこみますが、えんぴつはなぜあの形なのでしょうか?傘はなぜあの形なのでしょうか?

何十年、何百年とその形が大きく変わらずに、この世に存在している製品は、その製品の機能やメッセージが、そのフォルムに凝縮されているように思います。

ある製品が、その製品の機能や伝えたいメッセージの帰結として、あるフォルムを取るように、授業というのは、その先生が伝えたいメッセージを体現するために、必要なフォルムを取るべきだと思うのです。

私は、「プリント穴埋め」という授業のフォルムは、先生の本当に伝えたいメッセージに要請されて生まれたフォルムではなく、何か他の事情(授業時間とか指導要領とか、その他の雑務に追われて先生が授業のクオリティアップに時間が使えないという現状など)に要請されて生み出されたものではないかという気がします。


以上のことは、私自身に対する「自戒」でもあります。

もう一度まとめ直すと、

・一番根幹となるのは何か?を伝えること。

・自分が魅力を感じること、面白いと感じることを、生徒に伝え続けること。

・知識の体系化のナビゲート役となること。

・自分の本当に伝えたいメッセージを体現するために、授業のフォルムを磨いていくこと。

を大事にして、授業をしたい。

そして、生徒の学ぶ力をとことん信じること。

自分の授業をモデルにして、生徒はさらにそこから進化したものを生み出してくれると信じること。

だからこそ、全てをくまなく教えるのではなく、根幹になることだけを伝え、身につけてもらって、後は、理科の海を一人で航海していくための勇気と自信を育むこと。

生徒が、地図のない世界で、自分独自の地図を作って、旅を進めていくことができるように、いかにして私自身が地図を作ってきたか、その過程こそ、生徒に伝えたいということ。

私は、そういう風にいつも思って授業をしています。(理想です。)


理科の授業の仕方に正解はないと思います。

それぞれの先生が、それぞれの方法で、それぞれのパッションで、授業をしていけばいいと思います。

もちろん最高の「プリント穴埋め」授業法もあるかもしれない。

その結果、一人でも多くの生徒が、理科が面白くなり、理科が好きになり、理科が得意になってくれるといい。

日本中に、理科と聞いて明るい顔をする生徒が溢れてほしい。

そのために、自分自身をさらに磨き、自分ができることをひとつずつやっていきたいと思っています。
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[ 2014/08/21 15:49 ] 子どもと教育 | TB(0) | CM(2)
同感!
昨年だったか、ご近所に遊びに行ったとき、庭に古い天体望遠鏡が放置されていたので、ずいぶん古い望遠鏡ですね、よかったら写真を撮らせてください、ブログに載せようと思うので、というと、どうぞどうぞ、欲しければあげるよ、と言われました。この会話を写真と一緒にブログに載せたところ、金峰町の友人から、欲しい、とのコメントがあったので、ぼくはその望遠鏡を引き取って分解掃除をし、取りに来た友人に渡したのですが、そのときの友人の話にちょっと驚きました。金峰町は星がきれいなところだそうで、都会から遊びに来た子供たちに、今度天体望遠鏡で星を見せてあげるからね、と話したんだそうです。すると、その子供たちは「パソコンで見るからいい、パソコンのほうがきれいに見れるから」と言ったそうです。友人もそれにはびっくりしたそうです。これを聞いて、ぼくはレイチェルカーソンの「センスオブワンダー」のあの一節を思い出しました。以下引用しますが、ぼくたち大人は、子供たちには知識よりも「ものの見方」を教えていかなければならないように思います。

以下、センスオブワンダーより引用

子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になる前に澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直観力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目をみはる感性」を授けてほしいと頼むでしょう。この感性は、やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤になるのです。
[ 2014/08/21 18:39 ] [ 編集 ]
スプーンさんへ
ご無沙汰しております。
スプーンさんのおっしゃる通り、「ものの見方」(もっと言うと、”観”方ですね)を伝えていくことが、先生や大人の役目であろうと、僕も思っています。

星を天体望遠鏡じゃなくて、パソコンで見た方がきれいって言った子どもの心の中にどんな世界が広がっているのか、僕は非常に興味を持ちました。きれい、美しい、とはどういうことなのか、金峰町の美しい星空の下でその子ども達と語り合ってみたいです。

僕は小2の時の冬休みに、両親に買ってもらった天体望遠鏡を通して見た星空から感じたことを、詩に残しました。(冬休みの課題帳に書いていて、今でも手元にあります)
「心の星空」というタイトルで、サン=テグジュペリのようなことを書いちゃいました。(当時はまだ星の王子様を読んではいなかったのですが)
「星の輝きは目では見えない。望遠鏡でも見えない。星の輝きは、心の目だけが知っている。心というのは、何だろうか?」と。

その詩は、未だに僕の思索の原点になっています。

センスオブワンダー。
子ども達にセンスオブワンダーを育むために必要なのは、センスオブワンダーに触れたことがある大人が、愛と祈りをもって、そのきっかけを提供し続けることだろうと思います。センスオブワンダーに満ちてしまえば、後は子ども達が勝手に冒険して、この世界の神秘、深遠さを、驚くべき方法で、すくい取ってくれるでしょうね。
[ 2014/08/22 01:17 ] [ 編集 ]
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