英気に溢れる -Be filled with brilliance-

鹿児島で学習支援業を行なっているBRILLIANTが、子どもと教育、心と身体に関するエッセイ、日々の雑想をお届けします。

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素晴らしい驚きに満ちた一年

ある方から頂いた年賀状にこんなメッセージが書かれていました。

「あなたにとって新年が喜びと幸せ
そして素晴らしい驚きに満ちたものでありますように」

私はこの一文の中で「素晴らしい驚き」というフレーズに大変感動しました。

というのも、私は常々、「思ったことを思った通りに実現させていくことも喜ばしいことだが、思ってもみなかったような素晴らしい何かに出会ったり、思ってもみなかったような素晴らしい何かを実現していくことには、無上の喜びがある」と感じていたからです。


ひとつの例を挙げたいと思います。

以前私は映画制作をしていました。

映画制作では、コンセプトを考え、脚本を書き、スタッフや役者を集め、撮影をし編集をして一本の作品が完成されていきます。

その際、脚本の通りに、監督の思い描いた通りに撮影が進み、映画が完成していくことも確かに大事なのですが、それだけでは面白くならないのです。


以前、ある田舎の草木が生い茂る丘の上のお墓で撮影をしたことがありました。

その時私は監督として撮影をしていたのですが、どうも撮っている画に物足りなさを感じていました。

何が足りないのかも分からず、自分が進めている撮影にも自信が持てず、うーん…とすっきりしない顔で、撮影現場を眺めていました。

その時です。

一陣の風が吹き、丘全体の草木がざわざわと揺れ始めました。

私はハッとしました。

揺れる草木がまるで、お墓参りをする主人公に何かメッセージを送っているようじゃないか。

これだ!と私は思い、そのシーンはすべて、「風」を大事に撮ろうと決めたのです。

そこから私は俄然モチベーションが上がり、喜々として撮影を進めました。

そして出来上がったそのシーンも、風によって揺れる草木が大変印象的なものになりました。

もしその日の天候が違うものであったら、または、私がその現場に吹いていた風のメッセージに気づくことができないでいたら、もしかしたら、そのシーンは平凡なものになっていたかもしれません。

そこには、自分が思ってもみなかったような素晴らしい驚きがありました。


他にも、役者の演技や、スタッフのアイデアにも、監督が思ってもみなかったような素晴らしい驚きが生まれることがあります。

ですが、その演技やアイデアは、当初の自分の考えと真逆のものだったりすることもあります。

その瞬間は「到底受け入れられるものではない」と感じることもあるのですが、そこで、うーんとうなって、考えて、その演技やアイデアの奥にあるものを見つめた時に、何か新しい突破口が生まれることもあるのです。

そういったものが化学反応を起こしていくことによって、作品が「当初思い描いていた以上のもの」になった時に初めて、映画は「映画と呼ばれるもの」になっていくように思います。

また、その作品を公開した後、思った通りの良い感想をもらえることももちろん嬉しいですが、「こんな感想が来るとは思わなかった」という意外な反応を得た時は、さらに嬉しいものです。

生まれた子供には、こういう風に育ってくれたらなあと祈るものですが、親の予想を上回る思ってもみなかった素晴らしい成長を見せてくれた時、そこに子育ての無上の喜びがあるような気がします。


以上は映画制作の例ですが、私が普段行っている授業でも、私は「思ってもみなかったような素晴らしい何か」を大事にするようにしています。

ある一人の生徒が教室に来るとします。

その生徒のために、私はプランを考え、教材や授業の準備、予習をします。

その生徒も、私の授業で、こんなことを質問したい、こんなことを話したい、こんなことができるようになりたい、といった心の準備をしてきます。(宿題などもふくめて)

そうして授業がスタートするのですが、生徒の話を聞いたり、様子を見ているうちに、「当初私が準備していたことを、今日はすべきではないかもしれない」と感じることがあります。

例えば、数学の問題集の20P~40Pをとにかく一緒に仕上げて、定期考査に間に合わせようと考えていたとします。

たくさんの問題をとりあえず覚えて、テストに備えるということも、時期によっては大事です。
(やはり生徒も私も保護者の方も、短期的な目に見える良い結果を求めますから。)

でも、今まで表面的に数学の問題を覚えてテストに備えていたその子が、ある一問の問題に執着し、自分の力で何とか答えを出そうとしている様子が見えたとします。

その時、私の中に葛藤が生まれます。

「自分の力で答えを出すとなると時間もかかるし、限られた授業時間でたくさんの問題をこなすことができなくなる。

ここで解き方を教えてしまいたいが、でも長い目で見た時、この子が、自然と自分の力を総動員して問題解決に取り組んでいるこの時間は、とても大事な時間なのではないか。

今日は、多くの問題をとりあえずマスターすることではなく、この一問に限って、数学を学び、解くということがどういうことなのかを一緒に考えてみてもいいのではないか。」

そういう風に切り替えて、自分の意図を生徒に伝えて了承を得、その日の授業プランを大きく変更することがあります。

そして、概ねこんな風に生徒に伝えます。

「どうしてもヒントが欲しい時は言っていいから。でも、できるだけ自分の知識をフルに使って自力で解決してみよう。あなたならできる気がするよ」

そうすると不思議と、その問題がその子のレベルを超えるものであったとしても(普段のその子なら多分できないだろうなあと思うようなものであっても)、最小限のヒントをもらうだけで解き抜くことができたりするのです。


そうなると、私もものすごく嬉しいですし、何よりその子自身が「自力で解けた」という大きな喜びを得ます。

そして、その後、問題の解き方を振り返って、どんな風にして解き方を思いついて行ったのか、その筋道を辿ります。

生徒から、「普段、頭の中だけで考えて分からなくなってあきらめていたけど、先生がおっしゃるように、分かることを色々書きながら考えると気づくものなんですね…」という言葉が出てきたりすると、本当に嬉しい。

そして、その体験は生徒にとって、長い目で見た時、数学って面白いと思える心の芽や、数学を解く力の芽になっていくかもしれません。


しかし、もし当初のプランのまま、とりあえず多くの問題を解法を見ながらマスターしていくという方法を取っていたら(時にはそれも必要なのですが)、その日は平凡な授業に終わっていたかもしれません。

そのような生徒と先生にの両方とって、「思っても見なかったような素晴らしい発見」のある授業になったのは、
生徒の側にその日「何とか自力で解いてみたい」というガッツがあったからだし、先生の側にも、生徒の様子をよく見て授業方針を切り替える心の余裕と胆力があったからです。

(結果もしかすると、定期テストの点は少し落ちてしまうかもしれませんが。でも逆に、そのことで点が急に大きく伸びることもあるかもしれません。)


授業が当初思っていた通りにうまく進むということも大事なことです。

しかし、生徒と先生が出会い化学反応をすることで、その日、その瞬間にしか生まれ得なかった「思ってもみなかったような素晴らしい驚き」に満ちた授業が出来た時、授業は初めて「授業と呼ばれるもの」になるような気がします。


自分の器を超える何かに出会ったとき、人は驚きを得ます。

また、それが「素晴らしいもの」だと思える時、人には、その驚きに含まれた深い意味を受け止めるだけの潜在的な力がすでに育っているように思います。

(自分の器を遥かに超えるものであれば、それが内包しているメッセージには気づかないし、自分を通り過ぎていくだけでしょう。)

そうして、その「素晴らしい驚き」に出会うことによって、人は自分の器を広げていくことができます。


今年もまた、生徒の皆さんと共に、「素晴らしい驚き」に満ちた授業ができ、お互いに成長していけるよう、自分を整えていきたいと思っています。
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[ 2014/01/13 12:34 ] 日々のエッセイ | TB(0) | CM(0)

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