英気に溢れる -Be filled with brilliance-

鹿児島で学習支援業を行なっているBRILLIANTが、子どもと教育、心と身体に関するエッセイ、日々の雑想をお届けします。

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きれいごとではない、きれいごと

前篇に引き続き、カーネーション考・後篇です。

*** *** *** *** *** *** ***

このドラマのもうひとつ特筆すべきところは、きれいごとではない現実を、当たり前のように物語に織り込んでいるところである。


例えば、主人公・糸子の夫・勝が、出征するのと同時に、浮気をしていたことがばれるというエピソードがあった。

糸子は、夫の浮気を知ってから、非常に複雑な心境となる。

戦争に出て行った夫の身を案じる思いと、陰でこそこそ他の女と逢瀬を重ねていたことを許せないという思いがないまぜとなり、心に大きなしこりを作ってしまう。

普通の朝ドラであれば、純粋な夫婦の絆を保ったまま、夫は戦地へ赴き、妻は夫の身を案じて、表だって口にすることのできない「あなた早く帰ってきて」という言葉を心の内で唱えるのが常套であろう。

糸子は違う。

「どんな身体でもええから、帰ってこい。帰ってきたら、飯を食わせて、ゆっくり寝させて、元気にしちゃる。それから、こってりしぼったるさかい。覚悟しときや。」と、苦々しい顔をしながら、夫を思うのだ。

ここにも、一筋縄ではいかない、人間の感情の複雑さが表現されている。

強い憎しみが湧くのも、深い愛情があってのこと。

その人が自分にとって「かけがえのない」存在だからである。

どうでもいい相手には、憎しみも湧きようがない。

糸子は怒りながら、夫への思いの大きさに初めて気づいたかもしれない。

また、この言葉には、頭では許したいと思うのだが、身体からは許したくないという感情が湧きあがり、それらがせめぎ合っている様子がよく現れている。

このような相反する感情のせめぎ合いは、状況は違っても、誰しもが経験したことがあるのではないかと思う。(とくに、人が人を愛する時は、感情のせめぎ合いのオンパレードであろう。)

だから、視聴者は無意識のうちに自分を振り返って「身に覚えがある」と感じる。

すなわち「リアリティ」を感じるのだ。

それが、このカーネーションという作品の持つ強さのひとつである。


そしてさらに、現実の生生しさが、視聴者に迫ってくる。

結局、糸子と夫・勝は、その後永遠に言葉を交わすことはできなかった。

勝はお骨となって帰ってきたのだ。

糸子は心のしこりを抱えたまま、女手ひとつで三人の娘達と多くの従業員達の生活を支えていかねばならなくなった。

夫を許せないまま、夫を頼ることができないまま、過酷な戦後を生き延びてゆかねばならない。

きれいごとではない現実が重くのしかかる。

しかし、物語には、一筋の希望の光が差し込む。

しばらくして、戦地で勝と一緒だったという兵隊が、糸子の元を訪ねてきた。

そして、勝が一番大切にしていたものを預かっていたと言って、一枚の写真を糸子に手渡す。

それは、出征前に撮影した、勝と糸子、そして幼い娘達が一緒に写っている家族写真であった。


夫とはもはや対話することのできない糸子は、その家族写真と対話を始める。

そこから夫の思いを酌み取ろうとする。

そして、「許しちゃるわ」と言い、処分することができずにいた夫の浮気の証拠写真を火にくべるのだ。

いつか夫に買ってもらい、たんすの奥に押し込んでいた、赤いカーネーション柄のショールを羽織って。


ここに、私は、きれいごとではない現実を生き抜こうとする人間のたくましさを見る。

糸子はこの時点ではまだ、心の底から勝を許せていたわけではないと思う。

許せたのではなく、許さなければ、先に進めなかったのだ。

戦地からひらりと帰ってきた一枚の家族写真を「きっかけ」にして、自らの手で、自分の感情の澱を浄化し、心に区切りをつけること。

そうすることで、糸子は次の一歩を踏み出そうとしたのだ。

心のしこりは消えたわけではない。

前より少し小さくなった程度であろう。

しかし、人は、しこりが小さくなっているということに、安堵を覚える。

小さくなっているという感触が、いつか時が経てば、このしこりも消え去ってくれるかもしれないという希望をもたらしてくれる。

そうして、小さなしこりを抱えたままで、新しい一歩を踏み出していくのだ。

ここに、人間のたくましさと美しさがある。


カーネーションは、人生における「きれいごとではない、きれいごと」を描き続ける、稀有なドラマである。

きれいごとではない現実を、本心で生き抜こうとする人の歩んだ道は、荒れ果てたままではない。

その道には知らぬ間に、地に深い根を持つ美しい花が咲くのだと、そう思わせてくれる。

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ジャンル : テレビ・ラジオ
テーマ : NHK:朝の連ドラ

[ 2012/01/16 12:22 ] 映画・ドラマ考 | TB(0) | CM(0)

花言葉に込めた祈り

朝の連続テレビ小説「カーネーション」が素晴らしい。


世界的に有名なデザイナー、コシノ三姉妹を女手ひとつで育て上げた、小篠綾子さんの職人としての人生、そして母としての人生をモチーフにしたドラマである。

実在の職人さんをモデルにしているからであろう。

小篠綾子さんに恥ずかしくないように、このドラマに携わる全スタッフが、職人としての誇りを持って、抜かりのない仕事をしているのが伝わってくる。

オープニング映像から、本編の美術、衣装、小道具に至るまで、実に細かく丁寧に作り込まれている。

「神は細部に宿る」と言うが、カーネーションの持つ「迫力」は、役者の迫真の演技からだけではなく、スタッフの職人魂からも生まれていると思う。



細かいところ、見えないところにまで魂を込めるというスタッフの心意気が象徴的に現れているのが、週毎に付けられているサブタイトルではないだろうか。

「あこがれ」「運命を開く」「誇り」「私を見て」「いつも想う」…

これらはすべて、花言葉なのだそうだ。



今週のサブタイトルは「愛する力」。

長く苦しかった戦争がやっと終わり、人々が復興に向け、顔を上げ始めた頃のお話である。

「愛する力」はベニバナの花言葉だそうだ。

ベニバナ(紅花)と言えば、古くから口紅の原料とされてきた花である。

ドラマ本編でも、戦時中はほとんどお洒落に色気を示さなかった女性が、口紅をさし、女性としての感情を自然に表に出すシーンが象徴的に登場した。

愛する力、ベニバナ、口紅、女性の美しさ…と連想を広げられる、よく考えられたサブタイトルだと思う。

サブタイトルにまで「見えないお洒落」を施しているのが、心憎い演出である。



また、今週のサブタイトルに「愛する力」と付けたのには、表裏ふたつの意味があるように思う。


戦禍の中から立ち上がり、新しい時代を切り開いていくための根底となるのは「愛する力」だということ。

これは、女性が男性を、男性が女性を、という恋愛関係だけでなく、親が子を、日本人がアメリカ人を、と言ったような幅広い関係の中で、「人が人を愛する力」であろう。


これが表の意味だとするなら、もうひとつの裏の意味は何だろうか。

それは、口紅をさすことに象徴されるように、「人を愛する力」の支えとなるのは、「自分を愛する力」にあるということだと私は思う。


今日の放送では、主人公・糸子の妹、静子が、戦地から戻ってきた婚約者を、姉が闇市から仕入れた生地で作った、水玉模様の可愛らしいワンピースを身に纏って出迎えるシーンがあった。

戦時中は「自分を愛すること」がことごとく禁じられてきた。

好きな服を着ることも、好きな音楽を聴くこともできなかった。

人は、内なる自然な自己愛を発露させることができなかった。

静子自身もまた、戦時下においては、「自分を愛し、人を愛したい」という人間のもつ自然な感情を、心の奥深くに封印していたのだろう。

その重い封印を解くためには、まぶしいほどにお洒落な、水玉のワンピースを着ることが必要だったのだ。

そうして、封印が解かれた静子は、人目をはばかることなく、大好きな人の胸に飛び込んでいくことができた。


物が乏しく、人々が自分を愛することを忘れていた、激動の戦中・戦後に、お洒落な洋服、パーマといった「あこがれ」を提供することによって、人々の「自分を愛する力」を目覚めさせること。

それこそが、主人公・糸子を始めとする「美」に携わる仕事をしていた職人たちの使命だったかもしれない。

そして、自分を愛するという自然な喜びの感情を発露することができた人間は、より穏やかに、より優しく、人に向き合い、人を愛することができるようになるのだろう。

その真逆の世界は、自分を愛することが禁じられた戦争の中で、嫌と言うほど描かれた。

内に芽生えた自然な自己愛を解き放つことができなければ、人の心はどんどんすさみ、世界はどんどんボタンを掛け違えていく。

「愛する力」という花言葉には、荒廃した世界から人々が立ち上がる際の、原初の祈りが込められているのだと思う。


自分を愛する力が蘇りますように

人を愛する力が蘇りますように


ジャンル : テレビ・ラジオ
テーマ : NHK:朝の連ドラ

[ 2012/01/10 15:44 ] 映画・ドラマ考 | TB(0) | CM(0)

目には見えんけどおる

毎日楽しみに観ていた、NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」が土曜日で最終回を迎えた。

生まれて初めて、最初から最後まで見通した朝ドラであった。


今年3月末頃、本作の予告を見た私は、「これは面白そうだなあ」という直感がし、スタートの日を心待ちにしていた。

予告編を見る度に、ワクワクは大きくなっていった。

そして、実際、このドラマは期待を裏切ることのない、まれにみる傑作であった。


なぜ、このドラマは傑作に成り得たのか。

それは、役者・スタッフを含めたすべての作り手が、「同じひとつの方向を見て」製作を進めることができたからであろう。

彼らには、素晴らしい原作があった。

そしてその原作は、フィクションではない。

戦争で左腕をなくし、極貧の生活の中、片腕で漫画を描き続け、40を過ぎてやっと大成した不屈の鬼才「水木しげる」と、彼を陰で支えつづけた女房の「本当にあった」物語である。

しかも、その夫妻は現在も元気で暮らしていらっしゃる。

原作そのものが「生きて」そこに存在しているのである。


役者も脚本家も監督も、すべてのスタッフは、「生きた」原作を心に携えて、製作を進めることができたのである。

役者・スタッフサイドが描くべき世界の共通認識をしっかりと持つことができると、それぞれの考える「良い仕事」が反発したり、脇道にそれることなく、良い相乗効果を生むものである。


このドラマは一貫して、「目には見えないけれども、自分達を見守り、支えてくれている存在」への感謝をテーマとしていた。


陰で支えてくれた女房布美江や、家族や、先祖や、友人や、隣人や、名も知らぬ多数の読者達の「目に見えぬ大きな働き」があって、水木しげるの漫画は日の目を見ることができた。

「妖怪」という「目に見えない存在」と上手くオーバーラップさせながら、そのテーマを描ききったことに、このドラマの完成度の高さがある。


役者・スタッフが生きた原作を共通基盤に、明確なひとつのテーマを見つめることができたからこそ、これだけ完成度の高いものができたのであろう。


そして、ドラマの作り手もまた「目に見えないが確かにいて」ドラマを支えた存在である。

また、我々「ゲゲゲの女房」を楽しみにしていた何千万という視聴者もまた、作り手からすれば「目に見えないが確かにいて」ドラマを支えた存在である。

そのようなことを考えながら、主題歌の「ありがとう」を聞いていると、それが製作者から視聴者への感謝の言葉であるような気がして、泣けてしまう。

あなた達も「ゲゲゲの女房」を支えてくれたんですよ、と。

ドラマがドラマという枠を超え、視聴者の視聴行為そのものも取り込んで、テーマを完結させている点には、恐れ入る。

心憎い多重構造である。

妖怪、登場人物、スタッフ、そして視聴者までもが「目に見えぬ、縁の下の力持ち」として描かれている。


良い朝ドラは、視聴者の生活のリズムまで構築してしまう。

このドラマのおかげで、超夜型の生活である私も、この半年起きるのが大変ではなかったし、生活にメリハリがあった。

朝ドラというものは、物語であると同時に、視聴者の「日常」の一部であるということを、製作者は良く理解していたのだろう。

だから、上記のような多重構造を成し得たのだと思う。

この半年、私の日常に楽しみを与えてくれたことに、心から感謝したい。


ゲゲゲの女房や水木作品に関しては、書きたいことがまだまだいっぱいあるので、またいつか書きたいと思っている。

ああ、来週の月曜から、寂しくなるなあ・・・。

ジャンル : テレビ・ラジオ
テーマ : TV番組

[ 2010/09/26 04:20 ] 映画・ドラマ考 | TB(0) | CM(0)

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